もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

一体なんだんだろう

 結局のところ、妹の自殺に対する「どうして」が拭い切れないのだ。
 他人の本当のところなんて分からないけれど、どうしても死ななければならない理由が、残された携帯のメッセージからは読み取りきれない。病気だと言えばそれまでだけれど、将来を悲観するにしては24歳は若すぎる。時間や多忙に追い詰められても、逃げ道なんて本当はいくらでもある。「もうだめだ」の根拠がわからないのだ。その「わからないもの」を、私にはできなかったとしても、神やら宗教やらの曖昧で壮大な観念なら出来ただろうって、ただ思いのだと思う。
 妹を思い出さない日はない。けれど、他の似たような立場の人がどうなのかは知らないけれど私が妹を思い出すときに、「あんなことしたなあ」とか、「こんなとこ行ったなあ」とか「あの時はこんなことあって、こうだったなあ」なんて淡く楽しい幸せな時間の共有を、失くしてきた思い出みたいに甘く懐かしく思うんでもない。「自殺した妹がいた。その人は自殺で他界した」という事実を繰り返し、念を押すみたいに思うだけだ。
 妹が死んで以来、私にとって「家族」というもの自体がそんなものになった。家族として積んできた時間や思い出のようなものを、肯定的に思い浮かべて幼少期を懐かしく想う気になれない。かといって取り立てて否定するわけでもないけれど、一片ががっさりと欠けてしまったものを、愛しいものとして大切にする気にもならない。とても残念なことだ。両親にも申し訳なく思わなくもないけれど。
 家族のくせに救えなかった。でもその理屈があるならば、家族のくせにこんな深手を負わせた。その罪だって同等ではないんだろうか。こんなこと考えても意味のないことだ。もういないのだから。
 だから私は家族自体に意味なんてないと思うんだろう。「何で結婚しないの。どうして結婚願望が無いの」と聞かれることも多いけれど、意味なんてないと思っているものをどうして作らなければいけないんだというのを飲み込んで、「えー願望はあるんですけどねー良縁に恵まれないっていうかさー」みたいに微笑んで答える。そんな時、普段は思わないけれどものすごく孤独だ。一生こんなふうに笑っていかなければいけないんだろうか。全部かなぐり捨てて遠くに行きたくなる。
 私はすごく乾いていて、そしてすごく強くなった。と思うたぶん。妹は一体なんだったのだろう。あの子は一体なんだったのだろう。