もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

老カップルが美しかった日と、その前日

mxoxnxixcxa2018-03-06

例えば友人の経産婦が、己の赤子を抱いて、「世界一カワイイ」と言う理屈はわかるの。
だから、こちらもそうあるべき態度で「あらカワイイねー!」と、適当な顔のパーツを選んで、パパ似だね、ここはママ似かなー、などと返すくらいの社会性はちゃんと持ってる。その場に必要な言動はわきまえてる。と思いたい。
実際のところ、洋の東西、人種を問わず乳児をみて胸がキュンとくるような、あらカワイイー!を感じたことがないし、造形的に整った乳児だとしても、美形だね、と思うまで。ふうん、小さいねというのが本音。それ以外ない。
「でもそういうタイプの方が、いざ子供持ったら、すごく可愛がるみたいよ」と。
「えーそうなの、ちょっと想像しにくいなあ。でも自分に似てたりしたらカワイイだろうね」
とかなんとか、思ってもいないことを笑って返すけれど、やめてよねそういうの。本当に欲しくないんだから。

子育てしてる友人らが回りにいて、己もそういう年齢で、なんだか生まれてからの半生の答え合わせでもしているみたいで苦しい。普通のことだと思って来たことが、実はそうではなかったのだと今さら確認するのはきついことだ。まあ過ぎたことなんだけれど、目の当たりにするのは嫌な気分だ。
年を重ねていくほどに、強くなっていくもんだと思っていた。確かに知恵もついて強くなってはいるんだけれど、根本的な苦しさは増していくばかりだ。

そんなこんなで、ひょんな事から打算のない性根の優しさみたいなものに出会うと、ちょっとした驚きを覚える。そんな発想が出来るものなのかと、しみじみ感じ入ってしまう。
優しさってなんなのだろうか才能なんだろうか。その才能に恵まれない人間は、優しさのフリをして、それっぽく振る舞うしかないのだろうか。何かしらの努力で手に出来るものなのだろうか。
例えば誰かが何かを壊してしまった時、壊された側の第一声が「大丈夫?怪我はなかった?」という心配で、その思考回路は持っていないけれど、なるほどこう言えば良いのかと、その事例を例文ごとまるっと覚えて取り込むというのが、優しさの才能のない者の努力みたいなところ。基本的に性格が悪そうな私に出来るのは、そんな感じだろう。
こうやって、特に思ってもいないけれどその場に必要そうなこと、求められていそうな事を身につけて述べる。これを長いこと処世術と思って実践してきたけれど、そうまでして、一体何を取り繕いたいんだか。ってこの極めて個人主義の国で、ごくたまにふとちょっとだけ考える。頼まれて友人の幼児のベビーシッターしてる時、楽しく一緒に遊んでいるフリをしながら、フリをしているだけの私になついている子供を見ていると、なんだか複雑な気分。
こんな秘密主義の私といるパートナーは、たぶん寂しいだろう。本音を見せないか、たまに漏れる実像がひどく冷たいのだから。つくづく自分は誰かといるのが向かないと感じる。

 

そこへきて今日、私の前に杖をついた老カップルが寄り添って歩いているのを、追い越したら急かしたみたいになってしまうかな、など考えながら、少し離れた後ろを、ゆっくりついて歩いた。よろよろ歩く二人の姿はとても美しいと思う。美しいけれど、すごく悲しくて辛い気分になる。誰かと共に重ねてきた時間の蓄積というのは、赤の他人の目にはとても美しく見える。けれど、こんなに体の自由が利かなくなるまで生きなければいけないのか。彼らのようになるまで、まだ半分も過ぎていない。
私は長生きするだろうか。あまりしたくない。どうせならパンクな老婆になりたいけれど、出来ることなら老婆にならずにすませたい。
20代の頃のような、将来への漠然とした不安はない。何とでもなるだろうし、するだろうと思うのは、強くなったってことなんだろうが、生きていくのはとても苦しいものだと思う。