もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

面倒くさいなもう

 人は歳を重ねるごとに賢く図太くなっていける。それは本当だ。強く鈍感に狡くなっていける。それもある意味本当だ。
 
 けれどそれがどんどん生きやすくなっていく、というのとそのままイコールではないというのは知らなかった。根源的な苦しさは増していくばかりではないか。掴めずに指の間からこぼれていったものが増えていくのを知っていくのが年の功ならば、ほんともう、長生きなんて罰ゲームでしかないように見える。
 
 自分が誰なのか知っているし、何が好きなのかも知っている。私の現在が幸せに見える何かのような形に似ているのも知っている。
 底無しに優しいパートナーと一緒にお酒を飲んだり料理したり買い物に行ったりきのこ狩りしてみたり旅行したり家を買ってみたり。そこに居る事をありがたいと思う。仕事も極めて順調だし楽しい。そこそこ裕福な親も健在でやんわりと疎遠だ。
 この全部、取り囲むものへ愛情はないけれど、全てに愛着はある。分かってはいるのだ。私は自分に必要なアイテムは一応持っている。
 穴の空いた器に砂を注ぎ続けているような感じだ。いつも足りない。空虚で乾いていて、この立ち込める負の靄は一体何なんだ。
 
 ここで踏み留まって立て直さなければ、人格がどんどん歪んでいってしまう危機感が強くある。偏屈で不満だらけな皮肉屋の老女へと向かう方向へ。
 今まで上手く隠して立ち回れてきたのに、ここへきてそれがふとした時に、リアルの場に漏れ出てしまっているような気がして、とても不安だ。それだけは避けたいのだ。今までだって、常に見られたい自分を演じてこれたのだから。
 実際私は上手くやれていたはずだった。他人とつつがなく楽しくやるのも得意だったし、コミュニケーションにおいて困ったことは無かった。
 
 だから、このたちこめる負の靄は一体何なのだ。
 私は強い。私は自由だ。言い聞かせても靄は晴れない。私は何が欲しいのだろう。何と戦っているんだろう。何を根拠に四面楚歌になっているのか。何をどう克服すれば上手く処理できるのだろう。変に器用にこなしてきたしわ寄せが来たというのだろうか。そうだとしたら、対処のしようがないではないか。
 
 母国語で会話したい。同じ温度で同じ質量で。私はたぶん言葉に飢えているだけだろう。そしてこれは単なるスランプ。人生のスランプ。黙ってやり過ごせば過ぎていくはずだ多分きっと恐らく願わくば。
 
 そんなことを、年の近い有名女優の自死を知って考えていた。芸能人なれば承認欲求は一般人よりもかなり強いのだろうと想像するけれど、それにしても何もかも持っているように傍から見える人物であったとしても、心の内なんて誰にも分らない。
 彼女の穴が何だったのかは知らない。ふとした時に、ぶわっと穴に飲み込まれてしまったのかなあと想像するだけだ。残された家族の今とこれからを想って胸が痛む。死者にとっての生きる意味になり得なかった者、生に踏み留まるほどの価値になり得なかった者としての人生に身を置いて行くことになるのだから。