もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

『二十四の瞳』もう、むねがぎゅうと

mxoxnxixcxa2006-08-18

海の色も、山の姿も、昨日に続く今日であった
 という言葉を何回かはさみ、変わりないはずの日々の営みの中にいながらにして、歴史の波におし流されていく12人の生徒達と先生の大河ドラマ
 先日BSでやっていたので、初めて観てみた作品。だから戦争はいけないんだ!とか、そういった尾ひれが付いていくことで作品自体が霞んでしまうというか、そんな感じの先入観から何となく倦厭してきた作品。しかし2時間半があっという間のすごく良く出来た映画で、我慢できずに私はしてやられました。眼からいやというほど水が出てくるよ!
二十四の瞳 [DVD] 私はけっこう泣かない女だったはず。泣ける映画という謳い文句を心底軽蔑してまいりました。人前で泣くことも嫌っておりました。映画やもろもろで泣きそうになっても、私が泣いたってしょうがないじゃんと思えば涙が引っ込むような、そんなクールな乙女だったんですけども、女は25を超えると代謝も変わると言われるだけあって、涙もろくなってまいりました。それに加え、子役のこびたような笑顔が超嫌いで、その辺の子供もあまり可愛いとは思わないほうなんですけども、もうこの映画の子供達が可愛くていじらしくて愛しくて愛らしくて、胸がぎうとなりました。このようにして乙女は年をとってゆくのですな。
 何が素晴らしいって、先生役・慈愛に満ちた表情の高峰秀子と、小学1年生、12歳、成人と、成長とともに離れ離れになって、それぞれの道へ歩んでいく子供達との関係が、見ている側に過剰な押し付けのないまま淡々と繰り広げられるから。ほのぼのとした日常や貧窮、身売り、赤狩り、戦争、死、さまざまな痛みに身を置く登場人物たちを切り取る視線は、それらの事実に対して善も悪も、可も不可も与えずに、静かにただ見つめていく。
 これがきっと米国の映画だったら、誰か語り部として一人称で状況を説明する案内人を用意するんだと思う。まっちゃんがどうしてみんなから隠れて、こっそり船を見送ったのか、なぜ男の子達は次々に兵隊となって行ったのか。それを見送る先生の心はどうだったか、あの戦争とはなんだったのか。とかそういうことを。
 そういったことをいちいち説明せずに、事実を会話の行間でみせていくんである。だから、この映画における主観の不在や過剰な解説の欠如は、見る側がそこに何かを見出せるような余白があって、その余白がもう、すみずみまで計算されているという感じ。
 12人の生徒たちは物語が進むにつれ、ひとりまたひとりと去っていく。ラスト残ったみんなが集まる場面は、郷愁や寂寞といった、喪失の痛みという言葉にならない感慨を、全部語っている凄いシーンだった。盲目になったソンキが、「この写真だけは見えるんです」といって、「ここにいるのは○○、ここには○○がいる」と写真をなぞっていく姿と、それを見つめる先生と同級生達の表情に、この映画の全てがあると思う。あの集合写真が画面に映されるとき、何だか生きていくのは、喪失していくこととそのままイコールなんじゃないかと思えてくる。大人になって、時間が流れて、自分を見つめて過去を振り返るとき、どうしてこんなことになってしまうんだろうと思うばかりで、結局何も出来ない。時間はただ単に流れていくのだ。ああ小さいなぁ人間は…なんていう気もしてくる。
 そうして、『仰げば尊し』の「今こそ分かれ目」という歌詞が胸にしみることがあるなんて、思ってもいなかったです。自分のときは嬉しくてたまらなかったわけで、幼年期を外国含むあちこちで過ごした人にしてみれば、幼馴染ってどういうものなのかしら…きっといいものなんでしょうね。いいなぁ。『浜辺のうた』がしんしんと悲しさを積もらせるんですよ。悲しいよう悲しいよう。この映画を見るときは、反戦だ戦争の悲惨さだというようなテーマを探しをせずに、人間ドラマとして観るのがいいのだと思った。