もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

ジュリー眩しいよ沢田研二

mxoxnxixcxa2008-11-19

 なんですかこの卑猥な生き物は。おお、むせ返る退廃美。なんとエロい顔をしているのか。
 恐ろしくかっこいい。なんというカリスマ宇宙人。勢いに乗って原曲ロッド・スチュワートの「Da Ya Think I'm Sexy」も観てみたところ、異論も数あろうがこれは俄然ジュリーがカッコイイ。嗚呼ああ、手拍子する観客のあまりの普通さこのギャップ。まさに存在が前衛。素晴らしきナチュラルボーン・ナルシシズム。イギリスにはデヴィッド・ボウイ、ジャパンにはジュリー・サワダ。なんという素晴らしい時代なのだ70’S。ああ体験したかった。

 クリムトかと思った。まるでユディット1(これ)のようじゃないか。ひょんな切っ掛けで見てしまったジュリーの全盛期映像ですが、ここ最近もう、youtubeのジュリー巡りがやめられないです。だからみんな、見ないほうがいいよ危ないから。キリがなさ過ぎるの。
 はじめ上記の動画を見たときなんかは、はあん、日本のボウイかしら?と思ったのですが、すぐにそれはジュリーに失礼であることに気づきました。ジュリーはジュリーにして唯一無二であった。スター不在の現代からは想像もつかぬ完璧さで、見事なまでに偶像を体現している。超自然体のキザ男ジュリー。曲ごとにキャラが違うジュリー。すげーよジュリー眩しいよ。
 で、動画をあれこれ見ていて思ったんである。80’Sに入ってしばらくすると、やがてジュリーはジュリーのパロディと化していくわけ。徐々にゴージャスさが痛ましさに変わってゆく。時代に愛され選ばれたスターは、その時代にしか生きられないのだ。強烈な輝きは刹那にして永遠。過酷だなあ。現在CMなんかで見かけるジュリーは、極めてメタボなイケメンオヤジ。経年の残酷さを思った。
 で、日中ふとした隙に、私の右脳の中でジュリーが帽子を斜めかぶりで歌っているのに気がつき、これは恋かしらと問いかけてみる。なぜ沢田研二がジュリーなのかは知らないけれど、岸部一徳がサリーであったというのであれば、じゃあ沢田研二もジュリーなのだろう。ああ、「時よとまれ!お前は美しい」