もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

新年早々自決、うわぁ

 私が古都を離れた翌日に、金閣寺が雪化粧している様をテレビで見ました。ああよかった。そうして年末年始をあっちへこっちへ。で、私がひとまず古都へ帰った翌日に、身内のやっている立体駐車場最上階から、見知らぬ人がケータイを残して正月も早々に落下自決。神主さんを呼んでお払いしてもらったそうです。大変迷惑なことだよね。
 その朝、従業員の方が出勤したらパトカーやらマスコミやらがいて、なんですかと。飛び降りですよと。もう遺体は運ばれた後だったので、従業員の方が発見者となって心を病むなんて事態は免れたのですが、飛び散った血液を掃除するのはパーキング側なのですね。警察はそこまでやってくれないのだそうです。え…っと、嫌がらせ?場所を選ぶにあたって、何か怨みでもあったんですかね!パーキングは被害者だと思うのですが、どうですか。
 警察が来て調べたところ、監視カメラに写っていた該当者と思われる人物は、30代の男性。これをまだ若いと見るか、もう手遅れの年齢と見るかは様々だけれど。何故に新年という新しく生まれ変われる口実にのらずに、自分から死んだのかは知らない。事件性はないのでパーキング側には何処の誰とは知らされず、まあ、自殺した赤の他人の余計な情報など、断じていりませんよと。遺族の謝罪も今のところなし。
「絶望するなら死んじまえ 人生なんかどうせくだらない」という言葉があり、私が今よりも若かった時分には何となく胸に響いて、それとなく胸のうちに収めていたのですが、近頃は、この発想の傲慢さに薄っすらと思いを馳せるようになりました。自分の命を自分でどう使おうが、他人にはどうでも良いことですが、まずは他人に迷惑をかけずに死ぬべき。これは自決において最低限のマナーではないのか。大多数の人間は生々しい死を忌避したいと思って暮らしてる。願わくば、可能な限り生きていて欲しいけれど。
 人が自ら死を選ぶ、しかも身内の建築物からなんていう話が舞い込むとは思ってもいなかったもにか一族に、正月早々から激震が走ったよという話。年間自殺者数が優に3万人を超えていると思えば、押しなべてざっと一日に100人弱程度、自らを殺している人がいるわけで。そうかといって身近で有り触れたことには感じられない。という小市民の感慨は別にして、名もない小市民が立体駐車場の最上階から身を投げて死んだところで、ニュースにもならないわけで、マスコミは来ていたそうですが、パーキングの名前や映像なんかがイヤなニュースと共に出ることもなく、契約者との関係や評判もまあ守られたか、ということだそうです。
 そうして私は昨日、我が城に帰って来て、その足でお土産持参で知人宅へ行き、玄関先で帰るつもりが食事に連れて行っていただき、あげく深夜には小腹の減った私にご飯など振舞っていただき、あっという間に空が白んできたので、そろそろ帰り…と思って一歩踏み出した京都・午前7時、雪が降っておりました。空気は刺すように鋭く研ぎ澄まされていたのです。ああ、寒い…