もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

高速道路で哀しむ②

 更なる不幸が。すでに路肩で小さな動物が息絶えているのを何匹か見て胸を痛めていたのだけれども、斜め45度の角度でマーチに向かって飛び込んでくる小さな茶色い尻尾が一瞬見えたかと思ったら、鈍い音と衝撃が。一瞬にして頭を空にさせる音だった。
 高速の標識はさかんに「動物注意」と言っていたけれども、どう注意すればよかったのだろう。出来るなら思い切り注意したかったのに。分かってたら絶対避けたのに。なんでこんなことになるのだろう。私が行きずりの道端で、あまりに面白かったために、思わず上のような写真を撮ってしまったからだろうか。
 ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』をみて、狸の切なさに泣き崩れた体験がある。思い出し泣きさえ出来そうなくらい胸に響いていたのに、その子狸を私は跳ねたんだ酷いよ可哀想に。ハンドルを握りながら泣けてきそうになるのを堪えた。ごめんなさい人間が高速道路などこしらえたばかりに。
 でも人間は弱いゆえにずる賢いので、私もなんとかこの事態を楽天的に捉えようと考え始めてしまった。以前テレビで誰かが自転車に乗ったおじいさんを跳ねてしまい、ああもう駄目だと思ったら、そのおじいさんはむくっと起き上がり、自転車を起こして「いやあ、すんませんね」などと言って、怪我は?大丈夫なんですか?と聞いても「いや、平気平気。大丈夫だった?ごめんね」などといって自転車で走り去っていったとのこと。
 そうか。大丈夫。私も死んだ姿は見ていない。子狸はあの後、何事も無かったかのように走り去ったよ絶対にそうに決まっているよ。と助手席の人と自分に言い聞かせた。
 目的地に到着し、考え込んだ。悪気は無かったけれど辛い。どうしていいのか分からないのでマーチに四方から塩をふりかけ、自分にもふって手を合わせた。幼児洗礼の後に堕落したカトリック教徒として。でもでも、人間の神に祈るのも傲慢だなと思い、狸の神様を思い浮かべた。
『ぽんぽこ』でも狸は祈っていたし、川上弘美の『神様』でも、熊が熊の神様の話をしていた。宮沢賢治の『なめとこ山の熊』も、因果や輪廻の思想に加えてやはり熊の仏性のようなものについて描かれていたわけで、私は手を合わせ、ああどうか成仏してくださいと願った。