もなか

欧州ど田舎暮らしで母国語のアウトプットに飢えているのでネットの森に穴掘って王様の耳はロバの耳

自己愛全開の自己肯定でGO!

 先日京都で電車に乗っていて、なんとなく見上げた吊り広告に 「壁にぶち当たるのは、それだけ前に進んだから。恐くて足がすくむのは、それだけ高く登ったから。すべてはあかし。成長した…あかし。」 とあった。一瞬真冬に襲われた。「」部分に特に強めの風が吹いていた。生暖かい救いの言葉にぶるぶる震えて思わず手摺をきつくつかんだ。
 ここで励まされ、感涙の涙にむせび泣けば癒されるわよと脳内小人が言う。けれど、こういう生ぬるい励ましポエ夢というか、安易な自己肯定って危険じゃなかろうかと考えた。一億総自己愛のこの時代、何でもかんでも自己肯定してんじゃねーよとくさくさに突き動かされるままに考えた。昔いた326とか、超嫌いだったのだ。なんだってんだ「キミは、ソレで、いい。」みたいな。「どんなキミでも、キミでいい。」みたいな。結局突き詰めれば、こんな自分を受け入れない周囲が悪い、社会の制度が悪いのだっていう、盲目な発想に繋がりかねない。くさくさ閉じこもってとぐろ巻きつつ、それでもボクはボクのままでいいのだボクだって本気を出せば絶対になんだって出来るんだ。みたいな。ボクチンを愛さない、ボクチンの良さを理解しない奴が悪いんだ、みたいな。
 ハゲマシ系ポエ夢は耳に心地よろしくとも、例えばこのニートむせ返る日本列島で、ひょんなことで自宅に引きこもり、社会に接するタイミングを掴めないまま焦っているような人の足がすくむのは道半ばで体育座りをしているからで、それじゃダメだわなんて思いつつ、でもさぁだってさぁなんて理由を探してもいるからっぽい。そこに成長なんてあるかしら。そういう日々を無駄としないには、この先をしっかりやっていくしかないんじゃん。で、振り返って、あああの休息は意味があったさあの時は必要だったのだ。なんて思えればいいんであって、そのためには馬車馬のように突っ走るっきゃない。意地気ていたっていつかは立ち上がって積もった埃を払い、自力でなんとかしなきゃいけない。
 とか言いながら人様に偉そうに指摘できる程出来た人間でもないんだった。でもニートが80万人以上もいて、この先10年後には100万人突破するなんていう数字を見ると、一体全体どうなっているんだろうと考える。日本の先行き十分暗いけれども、何十万人のニート個々人の将来だってそうとう暗いんじゃなかろうかと他人ながらに心配したのは、日々の雑事から思考回路を逃避させたいがためなんだ。